もしもリハビリテーションマネジメントに悩む理学療法士が、ドラッカーの「マネジメント」を読んだら

悩みが尽きない理学療法士9年目。回復期から転職して今は訪リハ勤務です。自分の仕事に活かせることが書けたらいいなと思っています。

どうして理学療法士の私が『超高齢社会を医療・テクノロジー・コミュニケーションで超えていく 大江隆史×落合陽一×近山知史 トークセッション』に参加したのか

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 理学療法士だけど参加してみました。

 

医療・介護×テクノロジーに興味を持ち始めたのは最近のお話。

興味を持ったきっかけは、乙武さんの義足プロジェクトのお話で「いつか弱った自分の足を切り落として義足に付け替える時代が来るのかもしれない」というお話を聞いたとき。

 

このお話を聞いた時、正直戸惑いました。毎日のようにクライアントの下肢筋力の強化に努めている私のお仕事。クライアントが切断を選んだら、私はどんな顔をすればいいんだろう。選択するのは個人の自由、あなたが決めたことだから…と割り切ることができるのでしょうか?

時代は進みます。リハビリテーションの分野にテクノロジーが入ってきた時、自分はクライアントの選択を正しい距離感で受け止められるのか。それ以前に必要とされるのか。

 

どこかから「ぼーっと生きてんじゃねぇよ!」という声が聞こえたような気がしました笑。

というわけで

 

で、読み終えた感想がこちら。

 

大切なのは「テクノロジーと親和する」という捉え方なのかな、と思います。

 

その後もテクノロジーやAI、ICT、介護ロボットなどのキーワードにアンテナを貼るように生活してみて、今回知ったのがこのトークセッション。

偶然にも今日の訪問リハが2件ですぐに振り替えられたので、調子に乗ってお休みを頂いて参加してしまいました。

 

超高齢社会を迎え、私たちは少ない労働力で高齢者を支えていかなくてはなりません。その問題は日本全国で共通なわけでもなく、地域によって違う形で可視化されてきます。

「コミュニケーションが希薄になる」「仕事が奪われる」などサービスを受ける側だけでなく供給する側からも批判的な意見を聞くことも多くありますが、私個人の意見としては若者の労働負担を減らすのにテクノロジーを用いるのはとても有意義な事象だと思います。

 

確かに「ある日突然、自分が誇りを持ってしていた仕事をロボットがすることになる」と考えるのは怖いです。乙武さんの義足のお話で受けた戸惑いもこういう所にあったのかな、と思います。

しかし、実際に困難に直面しているクライアントを全く違う視点から捉えた時に、新しいテクノロジーがそれを解決することができるのならどうでしょう?

 

落合さんのお話で度々登場する網膜投影を知ったとき、頭に浮かぶクライアントが大勢いました。白内障脳梗塞後の視力障害を合併し、大好きな本が読めなくなったのは祖父でした。白内障だけでなく様々な疾患を複合する高齢者の視力障害はシビアです。眼鏡一つでは到底解決できる訳もなく、外出機会は減り交流も途絶え負のループが始まります。

 

施設や病院などでも簡略化できる業務はたくさんあります。しかしながら現場にその流れはなく、少ない人員で全てを賄いストレスを生むことが、不要な精神的負担に繋がり人間関係を悪化させます。不穏な空気はクライアントに対する心のこもったケアをする時間さえも奪っているのではないでしょうか。そうならない人材やそういう人を育てる仕組みも多数あるとは思いますが、長く働いているとそういう場面を目にすることが少ないわけではありません。

 

理学療法士ははっきり言ってマニアックなお仕事です。

「お仕事は?」と聞かれて「理学療法士です!」と胸を張って答えるものの、直後に「あ、そうですリハビリのアレです」となんだか不本意な説明をせざるを得ない場面が多々あります。

 

しかしながら、高齢者の生活にテクノロジーが親和していくのにリハビリテーションの視点は絶対に役に立つと信じています。

私は訪問リハに従事しているので、彼ら、彼女らがリアルタイムで直面している問題を家族や地域、生活歴など社会的な背景も含めて捉えることができる仕事をしている、と思っています。

 

近山さんの

新しい当たり前を発見する

という言葉がとても印象的でした。

 

その新しい当たり前をリアルタイムで現場に取り入れ、モデルケースを作り発信していくのが超高齢社会がテクノロジーと親和するためにリハビリテーションに携わる私にできることなのでは?と思いました。

 

となんだか興奮して終わってすぐに横のカフェMiyamaに入ってブログを書いてしまいました。こんな休日も素敵です。

まだまだ時間もあるので、今日聞いたお話もまとめて書いてみるつもりです。

 

自分に何ができるのか、まだまだ勉強不足のポンコツな私ですが、少しずつ発信していけたらな、と思っています。

もしも最後まで読んでくださる方がいらっしゃいましたら、駄文乱文にお付き合い頂きありがとうございました。 

Manage=管理じゃない!リハビリテーションマネジメントがちょっとだけ見えてきたお話

newspicks.com

 

こちらの記事を拝読して、リハビリテーションマネジメントてこういうことなんじゃなういかな、ってちょっと思えたので忘れないように学びを綴ってみました。

本当はもう一つ理由がありまして、Mackbookを買ったので長い文章を書きたかったということです笑。

 

マネジメントとは「なんとかすること」

英語の「Manege」はそもそも「あちらを立てればこちらが立たずの状況をなんとかすること」だそうです。いつか私も気心知れた仲の人に「I can manege this situation♪」て言ってみたい笑。

 

リハビリテーションで直面する問題も、そもそもみんな「なんとかしなきゃいけないこと」。

「管理」とか「他職種を動かす」とか難しく考えるから身動きが取れなくなってしまっていたのだなぁと、目から鱗の気持ちでした。結果、他職種には動いてもらわなくてはいけないんですけどね。でもそれは管理じゃない。一緒に「なんとかして乗り越える」こと。

 

価値のあるマネジメントをするには「仕事の前提条件を考える」

田端さんは喫茶店のモーニングセットを例に出していますが・・・

リハビリテーションの前提条件とはなんでしょう。いきなりテーマが大きいのかな。

訪問リハで「活動量をあげたい」利用者様がいたとします。

クライアントの生活を考えたとき、活動量が上がらないボトルネック全体の能力や成果に影響する問題となる要因)はなんでしょう?

gakumado.mynavi.jp

こういうビジネス用語、普段から乱用する必要はないけど耳にした時わかっているようにはしたいです。

 

一日中ベッドに寝てるなら「車椅子を借りてみよう」。周りに移乗できる人がいないなら「ご家族に介助伝達してみよう」または「ヘルパーさんの導入を提案してみよう」。もう少し時代が進んだら「ベッドかそのまま車椅子になる介護ロボットを入れてみよう」なんていう発想も生まれるのかな。いざ離床してもやることがないなら「余暇活動は提案できないかな?」「福祉用具の工夫はできないかな?」。

 

とても印象的だった田端さんの言葉は

「アイデアを創出して選択肢を作り出し、最適なものを選ぶのが大事なんです。」

 

クライアントのニーズに対してどんなものが受け入れやすいのか、相手の情報(個人因子)はもちろん使えるサービスの情報(環境因子になるのかな?)も必須です。

 

これらを実現しようとしても、ほとんどは理学療法士ひとりではどうにもできません。こういう時に他職種連携は必須です。

 

メンバーが「目標を醸成しよう」という空気を醸成する

田端さんはチームの士気を高めるために肉の写真やグラビアアイドルのポスターを貼っていたそうです。詳しくは記事をご参照ください笑。

まさかケアマネさんやヘルパーさんとグラビアイドルの谷間を目指すことはできませんが、私たちの仕事の士気を高めるのはそんなに難しくないのかな、と思いました。

 

以前、ある研修で「活動と参加を他サービスと協働して取り組むためにできること」というテーマでグループワークをしました。

その時に感じたことは

どのサービス担当者も“クライアントの生活”のために動いているということ。 

リハビリテーションの立場から、どうやってそれを他サービスの方に伝えるか。

私たちのマネジメントで大切にすべきことはそこなのかな、と思いました。

 

これは訪問リハだからなのかもしれませんが、クライアントはいつだって中心にいます。私は頭の中がお花畑なので、無知なだけでひょっとすると現実の全てがこうじゃないかもしれませんが。でも誤解を恐れず書くとすれば病院などは業務効率なんかもあるので時と場合によってはこうならない時もあるのかな、と思います。話が逸れるのでこの辺で割愛します。

 

クライアントのニーズをどうしてこんなにも達成したいのか、心地よい距離感でチームに伝えることができると、同じようにそのクライアントを中心に動いている人たちの集まりなのですから、自ずと知恵や力を貸してくれるはずです。

もちろん距離感や熱量を間違えれば、なんの成果も得られず終わることもあるでしょう。その辺のプレゼンテーションや細かい駆け引きもマネジントする側の手腕に委ねられるのではないでしょうか。たぶん別の勉強が必要です。

 

アクセルとブレーキを一緒に踏むことができないように、どっちも頑張ることはできない

真面目な若者が苦手とすることとして、田端さんは「働き方」の意思決定を挙げています。

どちらが大切なのか決められない状況。理学療法士がぶち当たる状況でいえば「歩行が不安定になった利用者に対して福祉用具を導入するか」、「目標達成して生活も安定したし、訪問リハを卒業するか」、「移乗の際に強い痛みがあって介助量も増えているからリフターを導入するか」などでしょうか。

 

活動のレベルを落として負担を軽減することは、近い将来の機能の低下を招きます。反対に機能の維持にこだわることで、クライアントの心地よい生活が脅かされることもあるのです。

 

田端さんの言葉より、

どちらかを積極的に「見て見ないフリ」しなきゃいけないときがあるのがマネジメントなんですよ。

とのこと。

 

どっちも頑張ることは、車のアクセルとブレーキを同時に踏んでしまうこと。

 

チームが置かれている局面によって、本当に大事なことはその時々で変わってく。

リハビリテーションマネジメントも同じですよね。クライアントの状況は、その時々変わっていく。本当に必要なこともまた然り。

 

どちらが大切と決めることは、リハビリテーションだけじゃなくて全てにおいて難しい。切り捨てられた方は「大切じゃない」って言い切るということなんですものね。

 

田端さんの言葉より、

「どっちも大事」なモノが左右にあったとしたら、その間を振り子のように行ったり来たりしていい。ベストなのは、らせんを描くように上昇させていくイメージ。

トレードオフに直面したときにどちらかを断言できないマネージャーは二流」だと言いたいね。

とのこと。

 

うーん、的を得すぎていて耳が痛くなります。

クライアントのその時々の状況に合わせて、イデアを創出して選択肢を作り出し、最適なものを選ぶことで、らせんを描くように生活の満足度も上昇していったら素敵だな、と思いました。

そういう場面で専門家としての視点が活きてくるのではないでしょうか。勉強も必要です。

 

マネジメントはDJ!自然と働きだしたくなる雰囲気をつくる

最後に、マネジメントはDJに近い感覚があるのだとか。

 

これは本当の管理職なんかに言えることなのかなぁ、と少し私には難しく感じます。

 

よく行くBarの店長さんがDJさんなんですが、以前お店の客層に合わせてかける音楽のテンポやキーの高さを変えてるよって話してたのを思い出しました。自分の好みは関係ないよ、って。

 

その場にいる人が自然と踊りだしたくなるような、働きだしたくなるような雰囲気ってどうやったら作れるんでしょう。こういうところはもっと色々な知識や経験が必要なのかも知れません。 

でも、田端さんがいうように成功する組織の盛り上がりを体感した時に、マネジメントは一人で仕事をするよりも醍醐味を感じられるんだな、なんて思えたらいいなぁと思います。

 

 

本当に勉強になる記事でした。有難いです。

田端さんの存在はこの記事で初めて知ったくらいで、途中までタカアンドトシのトシさんだと思ってた私ですが笑。

 

専門的な勉強が大切なのはもちろんだけど、こういうところから学べることもたくさんあるのですね。

そして何よりMackbookだとはてなブログが書きやすくて書きやすくて、記事と同じくらい感動しています笑。

【マネジメント】マーケティングとは② 〜フレームワークは一丁目一番地〜

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マーケティングの世界は奥が深いそうです。

 

そんな奥深いマーケティングにおいて、『4P』や『4C』といったフレームワークは一丁目一番地とのことで、少し勉強してみました。

 

フレームワークとは「ツール」とも呼ばれており、実際にマーケティング課題を解決し、ビジネスを成功に導くための「道具」として捉えるそうです。

(参考;https://www.advertimes.com/20180322/article267431/

調べていたらPDCAサイクルフレームワークとして紹介されていました。

 

まずは『4P』。

Product;製品・商品。「製品を通して顧客ニーズをどう満たすか」「製品を通して提供できるメリットは何か」

Price;価格。「顧客が購入してくれる価格なのか」「製品価値との整合性はあるか」「適正な利益を得られる価格であるか」

Place;流通。「ターゲット層に確実に製品を届けることができる流通形態になっているのか」

Promotion;促通。「いかに製品を認知してもらうか」

(参考;https://innova-jp.com/3713/

書いていて気付きましたが、これは製品を売る為の戦略でした。

 

実際にどのようにして顧客のニーズを拾うかは『4C』の方みたいです。

Customer value;顧客にとっての価値、メリット、悩みの解決

Cost;顧客が負担するコスト、節約できる負担や時間、あるいは避けられるリスク

Convenience;顧客の利便性、可能な限り早く、手間をかけずに製品情報や製品を入手できる方法

Communication;顧客との対話、双方向のコミュニケーションを生み出す手段

(参考;https://liskul.com/wm_framework8-6329#3https://innova-jp.com/201603-4p-4c-marketing/

 

本文より「議論するべき要素は4Pと変わりないものの、4Cに言葉を置き換えることでぐっと顧客の目線に近づけるだろう」とのことです。たしかに仰る通り。

 

1人のクライアントに対して行うリハビリテーションを考えたとき、4Cというフレームワークを用いると1つ目のCustomer valueさえ明確にできれば、とても合理的な目標を立てられるような気がします。それをどのように実現するか、『4P』で戦略を立てることもできるのでしょう。「製品」は「プログラム」に、「価格」は「費用対効果(負荷量?)」になど言葉の置き換えが重要に思えます。

 

でも『顧客』が異なるとこれらのCはどう変わってくるのでしょう。

 

ケースバイケースで考えていく必要がありそうですが、この考え方が上手になるとマネジメントも上手になりそうな気がします(勝手に笑)。

 

『製品』が自然に売れるよう、求められるようニーズを開拓する。またはニーズに合わせた『製品』を作る。

 

大きな会社には「マーケティング部門」などマーケティングを専門とする生業の方もいらっしゃる訳ですので、まだまだ修行が必要そうです。

 

リハビリテーションにおけるマーケティングとは?

 

Do you think what's task,responsibilities,practices?

【マネジメント】マーケティングとは? 〜リハビリテーションが社会から求められるものであるように〜

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ドラッカー曰く

「企業の第一の機能としてのマーケティングは、今日あまりにも多くの企業で行われていない。(中略)消費者運動がそのことを示している。消費者運動が企業に要求しているものこそ、マーケティングである。」

 

消費者運動(企業の目的は欲求の満足であると定義せよという要求)は、企業においてマーケティングが実践されてこなかったということ、つまりは恥だと仰っています。

 

マーケティングは販売ではないそうです。

販売とはつまり『製品』からスタートするということ。

 

真のマーケティングは『顧客』からスタートします。

『顧客』は現実・欲求・価値からスタートするものです。

ドラッカーは『顧客』に対して、「我々は何を売りたいか」ではなく「顧客は何を買いたいか」を問いなさい、「顧客が価値ありとし、必要とし、求めている満足」を示しなさいと説いています。

 

改めて、リハビリテーションにおけるマーケティング、そして『顧客』とは何なのでしょう。

 

最初に登場した『製品』は私たちセラピストが提供できるもの、実際の20分1単位の介入、会議やカンファレンスでの提案など専門家としての知識、病院や事業所などでの立ち振る舞いも含めてよいのでしょうか。

 

その『製品』が『顧客』にとって価値があり必要とされ求められているのか。

 

『顧客』はクライアントも含まれるでしょう。より理解を深めるためにはクライアントも定義しなくてはなりません。ここでいうクライアントは医療保険介護保険を利用してリハビリテーションのサービスを受けている方とします。保険内でのリハビリテーションでは医師の指示が必要です。

そもそもリハビリテーションの依頼をするのは誰なのでしょう。それも保険の種類によって異なります。

他の病院、ケアマネジャー、サービス事業所…、どうやら『顧客』の幅は広そうです。

 

『顧客』は何を買いたいか。

社会が企業に対して求めるものは結果です。

クライアントがセラピストに求めるもの。機能の改善、ADLの拡大、復職など、何が結果なのかはクライアントによって異なりますが、だからこそその結果を目に見えるものにする作業は大切です。それでもその結果は個人個人で異なる為、一定数のクライアントの満足度を普遍的なものにする作業は時として計り知れない労力を奪うでしょう。ですがそこで得られる数字は良くも悪くも明確な結果を示してくれるでしょう。

 

セラピストがクライアントに対して行えるリハビリテーションの価値を決めるものは何なのでしょう。対象となるクライアントによって異なるからこそ、セラピストは見極めなくてはならないのだと思います。自己満足ではないもの、できるなら数字にできるもの。

 

ドラッカー曰く、

マーケティングの理想は、販売を不要とすることである。マーケティングが目指すものは、顧客を理解し、製品とサービスを顧客に合わせ、おのずから売れるようにすることである。」

 

前半はなんだかリハビリテーションっぽい一文です。

『顧客』をクライアントに絞るなら、単にそれは修了とイコールなのでしょうか。

しかし後半を考えると、クライアントだけを考えていればいいようには思えません。医師が求めること、ケアマネジャーが求めること、それぞれの立場がセラピストに求めることが時と場合によって大きく異なります。クライアントを保険外にまで広げたら、きっともっと多くの『顧客』が現れることでしょう。

 

リハビリテーションが社会から求められるものであるようマーケティングを怠らない。

 

へっぽこ理学療法士の私には壮大すぎて何がなんだか想像もつきませんが、様々な働き方が認められている今だからこそ、見逃してはいけないポイントなのかと思います。

 

リハビリテーションにおける『顧客』は誰か、何を求めているのか考える。その要求をタイムリーに拾っていくことがマーケティングの実践なのではないでしょうか。

 

じゃあ明日から具体的に何をすればいいか、はまだまだ宿題です。

 

Do you think what's task,responsibilities,practices?

【映画】映画「栞」 〜誰かの後悔は、誰かの希望になる〜 その②

こちらはかなりネタバレしてます。観た人にしかわからない感想その②です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画「栞」で印象的だったのは主人公雅哉の父である稔と怪我により頸髄損傷となった藤村の対比でした。

 

藤村はプロのラグビー選手、試合中に怪我をして頸髄損傷となり下半身付随となりました。

一方の稔は教師をしながら男で一つで雅哉と妹の遥を育て上げてきましたが、脳腫瘍が見つかり手術をするか否かの選択を迫られます。

 

まずは稔についてです。

映画の冒頭は稔の妻が病室で苦しむシーンでした。悪性腫瘍でしょうか、カニューレをつけ苦痛に耐えきれず「迷惑なんでしょ」と叫び暴れます。それを目の当たりにする幼い雅哉と遥。傍らには若き日の稔も付き添いますが、我が子にそんな母の姿を見せられないという気持ちと、最期まで妻の横に居たいという気持ちが錯綜したのでしょう、看護師に頼んで母の傍を離れようとしない遥を病室の外に追いやります。理学療法士以前に幼い子を持つ私には耐え難いシーンでした。

 

そんな苦い思い出を抱える高野家から、何故雅哉は逃げたのでしょう。

 

遥は久しぶりに実家に戻った雅哉に「何か作ろうか?」としつこく提案し、入院中の稔にも手作りの弁当を持参するなど、献身的に振舞います。高校生となり、家族の中で母の役割を得ようとしているのでしょう。

稔が自分の病気を知った際に、一番懸念したのは高校生の遥が無事に大学にいけるのか、という点でした。雅哉が必死で学費も稔の治療費も「俺が何とかする」を訴えても、息子に頼れるかと言わんばかりに延命を拒み幾らかのお金を残そうと試案していました。

 

ここでも雅哉は無力に見えます。

彼が家族から「逃げた」理由はこういう所にあるのでしょうか。

 

そして公立学校の教師である稔は休職手当や傷病手当が受けられることを知り、自分が働けなくなっても3年半(※うろ覚えです)は家にお金を入れられることを雅哉に告げます。そして「だから手術する」と、延命治療を決意します。

 

一方、藤村です。

プロラグビーの選手であった藤村は下半身付随となりますが、雅哉との懸命なリハビリ(個人的な事情でリハビリテーションと書きたいのですが、ここでは「リハビリ」という言葉が合うような気がします、何ででしょう)により身の回りのことは自分で行えるようになります。自室での懸命な筋力トレーニングの成果もあり、長座位から車椅子への直角移乗も難なくこなします。担当看護師も「着替えもトイレもなんでも自分でできるようになった」と嬉しそうに雅哉に話します。

 

退院が近づいた日、

「俺、先生でよかったよ」

振り向きざまに雅哉にそう話します。

 

長下肢装具をつけて平行棒に立ち、ほとんど立てない歩けないことを知った藤村は雅哉に

「もうわかった、どのくらい無理なのかわかった」

と伝えます。

『障害受容』という言葉を頭に浮かべた理学療法士は私一人ではないのでしょうか。

直に関わる雅哉にとっては苦い経験ではありますが、第3者の立場から見たら「これでよかったのかな」という気持ちになりました。あの時は。

 

藤村の上司が見舞いにくるシーン。

プロラグビー選手であった藤村は選手続行が難しい場合、当然のように退職を選ばされます。それを何とか食い止めようとする上司の姿に、ラグビー以外でも職場に貢献していたであろう藤村の人柄が伺えました。

「選手になった時から決めていたことです」

と藤村は上司の厚意を制し退職を選びます。

「まずは自分のこと自分でできるようにならないと」

そう笑いながら。

結果として、身の回りのことが自立した藤村は実家に退院する運びとなりました。

 

教師である稔とプロスポーツ選手の藤村。

当然のことながら病態が違うので純粋な比較はできませんが、経済状況ひとつとっても2人の今後の人生は大きく異なります。もちろん不躾に尋ねることではありませんが、そこにどんなクライアントの思いがあるのか、これからもリハビリテーションに携わる私にはとても勉強になる背景でした。

 

そしてこの2人に関して何より心に残るのは、2人ともが「これからどう生きるのか」を自分の意志で決めたということです。

 

早くに妻を亡くし、またその壮絶な闘病を目の当たりにした稔にとって延命にどれほど希望が持てたのか。傷病手当について知る以前、ただひたすらに頭痛や嘔気に苦しむ稔はその苦しみを享受しているように見えました。1人になった時だけに嘔吐する姿など、母の苦しむ姿を目の当たりしている遥への気遣いも随所に見受けられたように思います。

 

その上で稔は我が子に幾ばくかのお金を残すために延命を決め、またその意志は雅哉にもきちんと伝わっていました。雅哉に関しては、妹の遥が父の決断を受け入れるよう彼なりにサポートしている姿もあったように思います。無力ではなかったのです。

 

藤村について。

先程『障害受容』という言葉を出しましたが、彼は受容できていなかったのでしょうか。

藤村の最期を肯定するつもりはありませんが、あれは受容していたからこその最期であったように思います。

 

あいみょんの『生きていたんだよな』という曲にこんなフレーズがあります。

「今ある命を精一杯生きなさいなんて綺麗事だな。

精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだ

鳥になって雲をつかんで

風になって遥か遠くへ

希望を抱いて飛んだんだ」

そのあとに彼女が叫ぶ「生きて生きて生きていたんだよな」が胸に刺さります。

 

少し前にダウンタウン松本人志さんがテレビで

「死んだら負け」

と話して物議を醸したように、多くの日本人がこの事象についてそれぞれの意見を持っているように思えます。

 

正直、私はこの件に関して確固たる意見を述べられるほど達観した人間ではありませんが、理学療法士である以上、私も正面から向き合わなくてはならない問題なのかな、と提起して下さった所に、この映画が伝えようとしている強いメッセージがあるのではないかと思いました。

答えを出すことはできないけど、考える必要があること。この部分があるからこそ、ぜひとも映画「栞」を理学療法士以外の方にも観て欲しいと思います。

 

自分で選び、自分で決める、責任をとる。

この2人の結末が良いのか悪いのか、どちらにも決められないということは正解がないということなのでしょう。

ただ私は「2人が選択した」という事実に関しては肯定したいと思いました。そのプロセスに置いて、理学療法士として、リハビリテーションに関わるセラピストとして、おそらく私はこれ以上ないくらいに無力でしょう。2人は幸せだったのでしょうか。

 

人生観、死生観についてとても勉強になる映画でした。

観終わった時のあの気持ちを思い出すと、「めっちゃいいよー!」と後輩や学生さんには勧められませんが笑、もしも自分の娘が理学療法士以外の仕事についたとき「観て欲しい」映画なのかと思いました。

【映画】映画「栞」 〜誰かの後悔は、誰かの希望になる〜

なんとか時間が作れたので夫のご厚意に甘えて1人で観てきました。

 

あらすじ

真面目な性格で、献身的に患者のサポートに取り組む理学療法士の高野雅哉。幼い頃に母親を亡くし、現在は父親の稔、妹の遥と離れて暮らしている。そんなある日、雅哉が働く病院にしばらく会っていなかった父・稔が入院してくる。日に日に弱っていく稔の姿、担当患者の病状が悪化するなど理学療法士として何が出来るのか自問自答の毎日で無力感に苛まれる。しかし、そんな時ラグビーの試合中にケガをした新たな入院患者を担当することになった雅哉。その入院患者の懸命に生きようとする姿に感化され、徐々に仕事への熱意を取り戻していく雅哉だったが……。病院という身近な人の死を経験する場所で理学療法士として、雅哉の選択していく生き方とは…。

 

監督は元理学療法士の榊原さん、原案、脚本にも携わっているとのことです。

 

以下、観た人にしかわからない、ネタバレありの感想です。

 

 

 

 

 

まず確認しておきたいことはこれが誰に向けられて造られた作品であるのか、ということです。

キャッチコピーの「誰かの後悔は、誰かの希望になる」というのはおそらく私も含めた理学療法士たちに向けられたものでしょう。

主人公である雅哉の年齢や経験年数については詳しく語られていませんでした。演じる三浦貴大さんは1985年生まれ。5〜10年目、といった所かと思われますが、様々な経験年数の理学療法士が感情移入しやすいよう、そこは敢えて定義されていないのかもしれません。

 

雅哉が何故、理学療法士になったのか。

それについても詳しくは語られていませんでしたが、幼少期の母の死や教師である父の姿、しかしその父と妹の生活から「逃げたかった」という背景も関係しているのでしょうか。

 

印象的だったのは入院してきた父、稔とのこの会話です。

「仕事はどうだ」

「毎日、苦しいよ」

「立派な仕事じゃないか」 ※一度観ただけなので細かいセリフがうろ覚えです

 

家族から逃げて就いた理学療法士は父と同じく『先生』と呼ばれる仕事でした。

理学療法士を『先生』と呼ぶことに関して、最近は敢えてそれを廃止する病院がほとんどです。

 

私たちは先生じゃないから。

私が学生の頃はほとんどの病院の理学療法士は『先生』でした。

今、私の勤めている病院に来ている臨床実習の学生さんも時々私を先生と呼び、そのすぐ後で慌てて〇〇さんと言い直して下さいます。初日に私がそう呼ぶよう伝えたので。

雅哉の病院は看護師さんも雅哉を「高野先生」と呼んでいたのでそういう風潮はないのでしょう。

 

何故、私は『先生』と呼ばれることを避けるのでしょう。

いつの間にか当たり前になっていたこの感覚が、どういう事情で湧いてくるものなのか。

映画『栞』を観ていると、自分でそれを説明しなくてはいけないような気持ちになりました。

 

映画『栞』で見せつけられるのは理学療法士が抱える圧倒的な無力感です。

その無力感とどのようにして付き合うのか。

 

おそらくそのテーマに対する一つの答えとなるシーンは亡くなった難病の男の子、海音のお母さんと雅哉の会話でしょう。

「患者に肩入れしすぎ」な雅哉に立て続けに襲いかかった担当患者の死や父の容態悪化、それを乗り越えることができずに理学療法士という仕事からさえも遠ざかろうとしていた時でした。

 

海音の両親は、亡くなった息子の遺体を大学病院へ献体する、と雅哉に伝えました。

 

海音の死の直後、雅哉は技師長から「海音くんの症例を学会に出してはどうか」と提案されます。

日本に50人しかいない症例、彼に対して雅哉が行ったアプローチは、それがどのような結果であれこの先同じ病気に苦しむ子どもたちとその子たちに関わる理学療法士にとっては大きな指針となるでしょう。しかし雅哉は無力感からなのか、それを拒みます。

 

そんな中で、海音にとって一番近い存在である両親の行動を知り雅哉は泣き崩れます。

そして直後に出会った同期?の永田からこう言われます。

「お前は患者に肩入れしすぎだけど、それを俺たちで分かち合わなきゃいけないんだよな」

※うろ覚えなのが口惜しいです

 

最後のシーン、群馬大学医学部附属病院に転職し学会で発表する雅哉をまっすぐ見つめる女性がいます。

彼女は雅哉の発表時間に合わせて会場に入り、手にする冊子には何枚もの付箋が貼ってあります。

きっとこれから雅哉が発表する症例と同じ疾患を持つクライアントが居るのでしょう。残念ながら理学療法士にしか伝わらない描写でしたが、それこそがこの映画で伝えたかったことなのでは、と思いました。発表の冒頭、雅哉の言葉が重く響きます。

 

事務室のシーンで何度も映り込む理学療法学は、単に理学療法士協会が協賛しているからという理由だけではないのでしょう。私たち理学療法士は自分の無念や後悔も含めて伝えていく使命がある、そんなメッセージと受け取れました。

 

そして同期の永田の言葉「分かち合う」という部分です。

『自分』が何かもわからない私たちは、時として計り知れない重圧や無力感を背負います。もしも自分の近くにいる同僚や後輩がそんな状況に陥ったら、喜んで分かち合ってきなさいよ、そういうメッセージもあるのかな、と思いました。

 

私たち理学療法士の、『自分』という部分について。

映画の冒頭、海音は自分の名前の由来を雅哉に伝えます。それに対して雅哉は自分の名前の由来を尋ねられても答えることはできませんでした。

私たち理学療法士は『自分』が何のかさえもわからないまま、病気や障害により大きな変化を強いられているクライアントの人生に関わらなくてはなりません。その上で、『相手』を知りなさい、『相手』の思いを知りなさいと教えられます。でも、そもそも『自分』て何なんでしょう。

 

「あなたは幸せになることを望み、それに取り組まなければならない」

アランの言葉です。名前の由来のシーンを観て、私はなんだかそんな風に言われているような気がしました。

ほんと、雅哉ってしけた顔してます。昔の自分を見てるみたいで吐きそうになりました。

そんな雅哉に「もっと幸せになってほしい」と思ったら、多分私が幸せにならないといけないのではないかと思います。

「幸福は伝染する。だから私たちには幸せになる義務がある」

私も含めて雅哉みたいな顔をしているセラピスト、実は結構居るのではないでしょうか。

そんな人がもし周りにいたら、まずは私が幸せになることにします。それはクライアントのためでもあるのでしょう。だって幸福は伝染するから。

 

と、最後はアランに頼ったまとめになってしまいました、笑。

 

本当は稔と藤村のそれぞれについても書きたかったのですが、長くなってしまったので一旦これで区切ります。

もしも読んでくださる方がいらしたら、駄文乱文に最後までお付き合い頂きありがとうございました。

【ドラマ】獣になれない私たち 第3話 〜それでも生きていて欲しいと思う誰かがいること〜

昨日の4話はまだ観てません。

 

〜3話のあらすじ〜

ワンマン社長・九十九(山内圭哉)へ決死の業務改善要求をした結果、うやむやのまま「特別チーフクリエイター」に昇進させられてしまった晶(新垣結衣)。晶は、元彼女の朱里(黒木華)のことで疲れ切っている彼氏の京谷(田中圭)の前では自分のことは何も言えない…。一方、恒星(松田龍平)の事務所に、突然訪ねてきた叔父から告げられたのは、数年前から行方不明になっていた兄が東京にいるらしいという情報だった…。

 

 

以下、ネタバレありの観た人にしかわからない感想です。

 

 

4話のテーマは家族です。

呉羽や朱里も多く登場しタイトルにもある『獣』要素も強くなってきました。

 

菊池凛子演じる呉羽の言動はいちいち責めてます。

「そんな社長殴っちゃえばいいじゃん」

悩みを打ち明ける晶に簡単に言い放ったかと思えば

「自由を手に入れるには、必要なんだよ戦いが」

 

恒星を『持ち帰った』というきっかけについても

「車がさ、ビュンビュン行き交ってる道路で、信号も何もないんだけど、うわって飛び出して、うわーって反対側まで渡りたーいって思うことない?」

 

それに対する晶は

「危ないですよね、迷惑だし」

獣になれない様子がよく表れています。

 

またラストシーンでの呉羽も秀逸です。タクシーでうじうじ嘆く京也に

「面倒くさっ!」

からのキス。当然、嫌がる京也を無理やり押さえつけて更にキス。

 

時を同じくして恒星も車から晶を庇うフリをして肩に手を置きますが、驚くほど自然に避けられます。

「感じ悪い」

好意を邪険にされたことが不服なことも表現します。分かり難いけど。

 

別れ際、

「一応、言っとくけど今はそんなに嫌いじゃないよ」

「どっちでもいいです、ただの客同士だし」

 

この後の松田龍平の表情は、カルテットも探偵はBarにいるも含めてもブッチ抜きで第1位、BestOf松田龍平です。

カルテット第8話で満島ひかり演じる雀から

「好きです」

「ありがとう」

「冗談です」

で、いつのまにか振られてしまった高橋一生演じる家守のあの表情を思い出します。

 

獣になれる人、なれない人の対比が見事でした。

 

そして黒木華演じる朱里のお話。

身体の関係もなくずるずると京也の家に4年間住んでいるという元彼女。

京也宛に届いた荷物を躊躇なく開けてしまいます。

 

江國香織さんの小説にこんな一文があります。

「結婚というのは残酷なことだと思う。結婚するというのがどういうことかというと、いちばんなりたくない女に、いちばん好きな人の前でなってしまうということなのだ」

 

京也に対する自由な振る舞いや京也宛の荷物を躊躇なく開ける朱里は、獣のように見えます。

でも、それはたぶん京也と朱里が家族に近い関係になっているからなのではないでしょうか。

 

誰に対しても獣になれる人が呉羽。

でもそれって誰しもが持っている一面で、朱里がそうであるように特定の人や家族のような近い存在に対しては自分でも気づかぬうちに獣になれるのです。

それを望む望まないは別として。

1周年記念パーティーで、兄に似た印象を持った晶を思わず誘ってしまった恒星も、あの夜は獣になっていたのでしょう。

 

で、いちばん書きたかったのが京也の母、千春のシーンです。

僭越ながら文字に起こします。

 

千春は孫とリビングで過ごしています。リビング隣の和室には寝たきりの夫(克巳さん)。

和室に置いた3モーター式の介護ベッドを頭部・下肢共にギャッチしています。畳が傷つかないようベッドの足元に敷物をしてあるところまで完璧です。右上肢はマンウェルニッケ肢位。拘縮もあるのでしょう、臥位姿勢からトーンの高さが伺えます。傍らにはリクライニング型の車椅子があり、キャスター付きのサイドテーブルには洗面器やティッシュが乗っています。

 

孫が千春に駆け寄ります。

「ちーちゃん、じいじスーハーしてない」

慌てて夫に駆け寄る千春。4点柵を外して夫の口元に耳を宛て、すぐに安堵の表情を浮かべます。そしてそのまま床に座り込んでしまいます。

「寝てるだけ!フフフ‥ほらおいで」

孫を膝に抱き寄せて語りかけます。

「じいじね、身体動かなくて、すごくすごく弱くなっているから、ス〜ハ〜する息もね、少しなの」

「じいじ、シセツに行かないの?」

「施設?」

「シセツに行ったほうがいいよ。そうするとみんな幸せなんだって」

千春は微笑んで、孫の手をそっと夫の胸の上に置きます。

「じいじね、弱いけど息してるの。お話もできないし、ごはんも食べられないけど。克巳さんはちゃんと生きてる」

「かつみさん?」

「ちーちゃんのだーい好きな人」

 

いや、もうお願いだからここだけで1クールのドラマにしてくれませんかね?

と思ってしまうほど刺さりました。

 

千春がほぼ1人で夫の介護をしていること、そんな千春を見ていられず同居している息子家族は施設入所も提案していること、おそらく千春はそれを拒んでいること。

孫のスーハーのセリフからも、千春が日常的に夫の呼吸を確認している事情が伺えます。

 

日テレの水曜22時のドラマで福祉用具の用意だけでなくこの短いシーンから花井家の事情まで分からせてしまう。ここまで作り込むのは野木作品だからでしょう。そういえばアンナチュラルの細かな設定も見事でしたね。

 

『目の前の意識のない人が、それでも生きていてほしいと思う誰かがいるということ』

 

以前、セミナーで教えて頂きました。私たちセラピストには何ができるのでしょう。こういう無力感も映画やドラマにして欲しいです。